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盛り場には寺がある 千日前には、お寺が三つある。有名な法善寺−といっても、現在本堂は再建されておらず、寺のない法善寺であるが、親はなくとも子は育ち、寺がなくても法善寺の名は全国津々浦々までトドロキわたっている。戦前には千日前の通りにむかって門があったが、焼けていまはあとかたもない。そのかわりに“天竜山法善寺”の碑がたった。 もう一つは、スバル座南隣の竹林寺だ。ここもさいきん門の左横に“浪速霊場・千日前・弘法大師”の碑をたてた。ムカシは、スバル座のある場所もこの寺の土地であったから、境内もひろびろとしていて、ハトがたむろしていた。二十一日のお大師さんの日には、どこからともなく善男善女がゾロゾロおまいりに現われて、信玄袋のなかから米をつかみ出し、ハトに投げあたえた。近ごろ、お寺まいりをするような善男善女はいったい、どこに姿を消してしまったのか。世は悪男悪女ばかりになったのであろうか。亀屋忠兵衛の墓がここにある。「カネより大事な忠兵衛さん」という梅川の表現には、あまりに大阪的でエゲツないと抵抗を感じるムキもあるらしいが、梅川はカネのために苦界に身を沈めたふしあわせな女性。こんな女がカネのありがたみを知り、一にもカネ、二にもカネ、カネのないのはクビのないのも当然やと思うのは当然のハナシで、そんな彼女が「カネより大事な・・・」と悲痛なサケビをあげるところにこの露骨な愛のコトバは、万金の重みがあるのだと思いたい。 バー、アルサロの女性に、いくらモテたといっても「カネより大事な」というほれられかたは、めったにしないものである。カネの切れ目がエンの切れ目。そう思えば水商売の女性相手の情事はいたくむなしいが、人間、カスミをくって生きてはいけず、ゼニが介在するのはどうにもいたし方のないことであろう。ネオンの光りが交錯し、明滅する雑踏千日前の一隅にアブラににじんで薄よごれた奉納ちょうちんのあかり。ゆらめくロウソクの灯。たちこめる線香のけむり。東京の浅草、京都の京極、名古屋の大須と、古い伝統のある盛り場には、みんな寺があり、それが一種の情緒になっているのだ。竹林寺の前に、かつては千日前名物(?)共同便所があったが、風のつよい日には、えもいわれぬニオイが通り筋一帯にフクイクとただよい流れ「これでは営業妨害や」と付近の飲食業者がケッ起した。軒並みぽんぽんと陳情書にハンコを取り、市会議員を動かして取りこわしてしまったが、人波あふれる千日前に一か所の共同便所もないのは不都合だと、その後、復活の声が高まったこともある。 だが、だれにしたってこんなものをじぶんの地域にもってこられては迷惑千万。“原子力潜水艦”みたいにほうぼうで敬遠されて、このハナシ、ションベンになった。寺は、もう一つ、市電停留所の前に妙見さんがある。尼寺のないのが残念である。 |